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  • 成瀬 紫苑

「罰××ゲーム」part3:presto

上流階級の青年が、ゲーム攻略の為に「女好き」のキャラクターを演じる外伝



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【part3:presto】


 体育祭まであと一週間と迫る中、今日はホームルームで当日についての諸連絡が説明された。


 昼下がりの午後、襲う眠気に加えて退屈な事務連絡。担任は作業のようにプリントを読み上げ、周囲は暇そうに頬杖をつきながら聞き流している。俺も目を閉じて黙考していた。

 普段と纏う空気が違うと感じたのか、いつも話しかけてくる隣の女も今日は黙ったままだった。


「あ、そうそう」と担任の言葉が聞こえて、僅かに目を開く。


「今年は、応援合戦の撮影は無いそうです」


 クラスメイトは特に関心を示さない中、菅だけが明らかにショックを受けていた。



part3:presto



「今年は、応援合戦の撮影がないんだよ」

 理事長は肩を落としながら、コーヒーメーカーを弄る。


「それは、残念ですね」

 俺は表情を変えずに首を傾げる。


「毎年、そこにお願いしていたんだけどね、急遽、外せない撮影が入ったらしいんだ。一週間後だけど、どこかいいところあるかなぁ」


 理事長は顎に手を当て思案に暮れる。俺はソファから身体を起こし、即座に口を開く。


「理事長。恐らく撮影されている学生本人が、一番いらないと思ってますよ。業者を雇って媒体を作成するだけでも、かなりの金額がかさむでしょうに」


「そうなんだよね。なのに毎年購入する人は一割ほどで困っててさ」

 理事長は、何故?と問うように両手を広げる。「まぁ、せっかくならこれを機に、やめてみるのもありか」


「金銭の取扱いは、慎重に」俺は目を細めて微笑む。


「君が、それを言うのかい?」理事長は肩を竦めて笑う。


 応援合戦は毎年、業者によって撮影が行われ、後日、生徒向けに販売されるという話を練習中に耳にした。

 業者を調べ上げ、撮影にかかる諸経費メディア代全額込みの金額を提示して話をつけた、という単純な経緯だ。


 できるだけ『城島』の痕跡は残したくない。


 思案に暮れていると、カチッという音が鳴り顔を上げる。

 理事長は慣れない手つきでラジカセを弄り、CDを手に取るとスイッチを入れた。そこから最も馴染みのある音が流れ始める。

 俺の顔は引き攣る。


「……本人の前で、何してるんですか」


 過去の俺の演奏を録音したものだった。


「これ、好きなんだよね。君の感情がむき出しになっているように感じられて」


 理事長は少年のように、嬉々と笑う。


「思春期入ってましたしね。がむしゃらだったんだと思いますよ」俺は他人事のように同調する。


「君が中学生の頃だね。昔から自由で伸びる音色は、変わらないね」


 理事長はCDジャケットを手に取って眺める。そこには日付と録音されてる曲一覧が記載されている。

 コンクールで弾いた馴染みの曲から自曲まで十曲ほど。あまり自らメディアに残す機会はなかったが、彼に頼まれて作成したものだった。

 

 流れる音色に耳を傾ける。今より荒い演奏ではあるものの、理事長の言う通りに、当時の青い感情が素直に音に乗っているように感じられる。


「俺は、君の演奏が本当に好きなんだよ。今回、作成した楽曲も聴ける日を楽しみにしているよ」


 理事長は目を細めて柔和に笑う。俺は軽く会釈すると、理事長室を後にした。


「あと、一週間か……」


 思ったよりも早かったものだ。

 すでに後始末を終え、攻略対象も定めてる。残すは、タイミングだけだった。


 制限時間は、九月十日の午後四時。

 応援合戦は午後一時から始まる為、時間的に参加は可能だ。


 だが、持ち時間六分に準備も含めると、各組最低十分はかかる。五組あることで、応援合戦が終了するのは約二時。それから二時間で桃山を攻略できるかが不安だった。


 最悪風嶺がいるとはいえ、当日は普段とは違い、競技のない生徒は自由に行動しているだろう。最悪カウントを稼ぐタイミングを逃して、ゲームオーバーになるかもしれない。それだけは避けたかった。


 時計を見ると、午後三時を指している。応援合戦の練習が始まる時間だ。 

 怒られない為にも、小走りで練習場へと向かった。



***



 今日は、教室が利用できずに練習が休みだったので、再びスタジオに入った。

 ヴァイオリンを手に取ると、息をするように弓を引く。


 これまで『白金』である時の行動は、理に適うものを選択し、常に確実な道を歩んでいた。だからこそ、「悩む」や「迷う」といった経験がなかった。

 俺は相棒と対話するように、身体に流れる感情を素直に音に乗せた。


 自分が見えない。何をしたいのかが読めない。

 解答の出ない感情に飲まれて溺れそうになる。

 だが、どこからか明確な返答が返ってくる訳でもない。


 一心不乱に弾き続けていたおかげで、あっという間に時間が経過した。


 夕日で真っ赤に染まった空を見上げながら、駅へと向かう。

 何気なく橋から高架下を覗くと、以前と同様に桃山の姿があった。今日は練習が休みなだけ、そこにいる予感はしていた。


 俺は生い茂る雑草を飛び越えて橋の下に降りる。今日はまだ日が落ちてないことで、声をかける前に桃山は俺に気づく。


「やっぱりいた」


 軽く笑いながら彼女に近づくと、桃山は首にかかったタオルで汗を拭いながら顔を背ける。


「今日は、練習がないから」


「さすが、真面目だね〜」


 俺はその場に腰を下ろすと、頬杖をついて桃山に顔を向ける。彼女は怪訝な表情で俺を見る。


「俺のことは、空気だと思ってくれていいから」ひらひらと手を振って肩を竦める。


「大気汚染は、無視できない」


「環境問題みたいに言わないでよ」俺は苦笑する。


 俺に見られてるから練習がやりずらいとはわかってるが、立ち去りたくはなかった。

 桃山はしばし考え込むと、俺の横にあるヴァイオリンケースを指差す。


「じゃあ、それ」


「えっ」


「演舞曲を演奏して」


 桃山は俺を真っ直ぐ見て指示する。俺は軽く周囲を見回す。

 

 橋の上は人が縦横するものの、夕時仕事帰りで皆自分のことにしか意識が向いてない。車の走行する音が橋に響き、川の水が流れる音に、風で木々の葉が擦れる音と騒がしい。

 対面に散歩する老人はいるものの、川の幅が広いことからも騒音にはならないかなと判断はできた。


 前回、俺も対価を要求したんだ。断れる理由もない。


「……仕方ないね」


 俺は左手の包帯を緩めると、ケースから相棒を取り出した。



 橋の上では忙しなく人が横行する中、高架下では赤く染まった夕日をバックに、この場限りの演舞場が生まれた。

 ヴァイオリンの音が先陣切って拍子を刻み、自然の織りなすハーモニーが演舞を盛り立てた。橋に音が反響することで周囲は包まれ、居心地が良いな、と改めて実感した。


 俺の音に合わせて舞う彼女が普段以上に輝いて見えた。無意識に口角が上がり、先ほどよりも強く伸びるように弓を引いた。


 この時間が永遠に続けばいいのに、今の率直な感情を音に乗せて演舞を心から堪能した。


 最後まで弾き終えると、桃山は膝に手を当て息を切らす。


「大丈夫?休憩しなよ」俺は眉を下げて声をかける。


 桃山は息を整えた後、目を閉じて口角を上げた。


「楽しかった……」


「俺も、楽しかったよ」


 素直に言葉に出る。頭では駄目だと理解しつつも、思わず溢れていた。


 桃山はその場に座ると、ペットボトルを手に取り口に運ぶ。そんな彼女を茫然と眺める。


「何?」


 俺の視線に気づいた彼女は、険しい顔で俺を見る。


「……何でもないよ」


 俺は目を細めて答えると、ヴァイオリンを膝に下ろした。


 片付けてる間、妙に静かだな、と桃山に視線を向けると、かなり体力を消耗したのか、膝を抱えてうとうとしていた。その目は、ほぼ閉じかかっている。


「明日香ちゃん?」


 俺の問いかけにも反応を示さない。次第に完全に目を閉じて眠り始めた。


 俺は、手に持ったクロスをケースの上に置くと、彼女の近くに寄る。

 そばまで寄っても目を開ける気配が感じられない。気を失って意識が飛んでいるようにすら見える。


「……完全に、挑発してるよね」


 こんなに何度もチャンスは来ないものだ。

 俺は身を屈めて、彼女に目線を合わせた。


 相変わらず肌が白くてきれいな顔だ。周囲にも顔の整った女はいるが、金に物を言わせてる奴が多かった。彼女は本当に素材がいいな、と改めて感じる。


 今、目の前にいる彼女にキスすればゲームは終わり、『城島』というキャラクターは消える。

 やっと、この狂ったゲームも終わらせられるんだ。


 俺はしばらく考え込むと、彼女に顔を寄せた。


「――――明日香ちゃん」


 俺は彼女の肩を揺らし、無理やり起こした。

 桃山は、はっと正気に戻ったように目を開ける。目前にいる俺に気づくと、反射的に身体を逸らした。


「あんまり無防備だと、俺みたいなやつに襲われちゃうよ」俺は軽く笑って対応する。


 桃山は、初めこそ状況が読めずに目をぱちぱちさせたものの、まっすぐ俺を見たまま目の色を変える。


「そんなこと、しないでしょ」


「どういうこと?」想定外の反応に虚をつかれる。


「あなたがそんな人じゃないってことは、音を聴いてわかっているから」


 桃山は目を閉じ、僅かに口角を上げる。


「何だよ、それ……」


 思考が停止し、顔が強張る。

 そんな俺には気付くことなく、桃山は颯爽と荷物をまとめると立ち上がる。


「じゃ」


 桃山は、まだ眠気の残った表情で短くそう言うと、この場を去った。

 俺は空を見上げて、長い溜息を吐いた。


 胸がじわりと温かくなる。こんなに嬉しいものだと思わなかった。


「煽ってるよね~、絶対煽ってる」


 やるせない感情を吐き出すように、何度も呟いた。



***



「はい、終わり! みんな、今日までお疲れ様」


 速水がパンッと手を叩いて叫んだ瞬間に、一斉に脱力する声が漏れる。

 明日は体育祭。今日が最後の練習日だった。

 そして、俺が『城島』でいるのも明日で最後になる。


 各々帰りの準備を終えると、名残惜しそうに教室を後にする。

「明日、がんばろうなー」と声が飛び交う中、俺は教室の端で茫然と天井を見上げていた。


 結局、あれ以降タイミングが掴めずに、ダラダラとこの日を迎えてしまった。

 時計を見ると、午後六時を示してる。制限時間までもう一日もない。

 気が抜けているのか、普段は適当に女の相手をしていたものの、今はそんな気分にもならなかった。



「玲央」


 突如、冷たくて刺さる声で名前が呼ばれる。だが今では、そんな声色が温かいとすら感じる。


 顔を下ろすと、案の定、目前には桃山がいた。


「なあに?明日香」


 意地悪く目を細めて答えると、桃山はキッと睨むような顔になる。その顔が照れ隠しだと判別できるようにはなっていた。


「これ」


 桃山は俺に何かを差し出す。その手には、綺麗に編まれたミサンガがあった。


「…………これは?」

 一瞬反応に遅れたものの、平然を装って尋ねる。


「みんなにも、渡してるから」


 桃山はぶっきらぼうに答える。俺は静止する。


 ミサンガは、明らかに彼女の手作りの品だ。こんなものを受け取ってしまったらどうなるかなんて、「罰」の意味に気づいた今では、わかり切っているはずだ。

 だが、断るなんて、今の俺にできるわけがない。


「ありがとうね」


 気づけばそう答えていた。


「せっかくならさ、明日香ちゃんが手につけてよ」


 俺は包帯の巻かれてない右手を彼女の前に差し出す。彼女は無言で俺の元まで寄る。


 目前で黙々とミサンガをつける桃山に目を落とす。立った状態で彼女と向き合うのは中々なかったのか、改めて小さいなと感じた。恐らく一五〇センチにも満たないのだろう、頭部まで見下ろせるほどだ。


「明日香ちゃんって、小さいよね」


 何気なく呟くと、彼女は険しい顔で俺を睨む。

 俺との身長差でその顔が上目遣いになっているとは、恐らく本人は気付いてない。

 自覚のない無防備な彼女が不安にもなる。


「小さくて、かわいい」


 俺は、にこっと笑って言葉を付け足す。

 彼女は、目を逸らして困惑するものの、再び俺に視線を向けて口を開く。


「ありがとう」


 桃山は、今まで見たこともないほどに、柔らかくて優しい笑顔で答えた。

 

「え!?」


 あまりにも不意打ちのことに声に漏れ、慌てて口を手で覆う。

 俺の反応を見た桃山は、口を結んで頬を染めた。


「…………あなたが笑顔って、言ったんでしょう」


 桃山は無愛想に呟く。何のことだ?と思考を巡らせると、ワックで声をかけた時のことだと思い出す。


――――もっと笑顔笑顔!君、素材がいいんだからもったいないよ


 まさか彼女が、そんなことを覚えてるとは思わなかった。増してや、俺の言葉の通りに実行に移すだなんて予想もしていなかった。

 軽い調子で種を蒔いたが、気づかぬうちに成長して花が咲いたような感覚だ。それは俺にとったら、手向の花となる。

 最後の最後に、とんでもない仕打ちを食らったものだ。


 俺は静かに息を吐くと、目を細めて彼女を見る。


「明日香ちゃん、顔真っ赤だよ」


「うるさい」


 桃山はやりずらそうに顔を歪めると、自分の荷物の場所へと戻っていく。

 俺はいまだ思考が定まらないまま、ふらふらと教室を後にした。


「………………嫌だなぁ……」


 応援合戦の練習の呼び出しから始まって、彼女の熱意に打たれた瞬間に保っていた距離を縮められる。抵抗したって水が染み込むようにどんどん俺の中に入ってくる。いや、俺が自覚していなかっただけで、抵抗なんてものは、初めからしてなかったのかもしれない。それこそ、今まで経験したことがなかったからだ。


 名前で呼ぶ要求も、全体練習の際に抱いた苛立ちも、結果の出てる博打に賭ける行為も、罰が重くなると理解しつつも拒めない態度も、理に敵わないとは理解していた。


 明確な解答がないからこそ、悩んだり迷ったりしたのだろう。ただ、原因が判明すれば簡単なものだ。


 全部全部、ひとつのある感情から生まれたものだったんだ。



「あんな顔………………忘れたくないって、思っちゃうじゃんか……」



 感情で胸が押しつぶされそうになる。

 

 俺は、桃山明日香のことが、本気で好きになっていた。



***



 九月十日。応援団の人たちにとったら晴れ舞台、『城島』にとったら命日だった。

 応援席から離れた木陰から、台本通りに済まされる個人競技を茫然と眺める。

 

 感情を自覚した後は、もう自暴自棄になっていた。

 一人でいる俺に気づいた女が『城島』に声をかけるが反応はない。愛想のない『城島』を訝し気な目で見た後は、つまらなさそうにこの場を去った。


 昼休み、名前も覚えてない後輩の女が『城島』にお弁当を差し出すが軽く突っぱねる。女は強張った顔で『城島』を見ると、そそくさとその場を去った。


 制限時間のことは念頭にあるものの、もはやどう行動すべきか、自分でもわからなくなっていた。

 破損しかかった『城島』の仮面を脱いだ俺は、小さく溜息を吐いて手に持ったペットボトルに口を付ける。 


 また誰かが近づいてくるな、と顔を上げると桃山だった。


「なあに?そんなに慌てて」

 俺はできうる限りの笑顔で対応する。


「何してるの」


「何してるとは?」俺は素朴に問う。


「今は、お昼ご飯を食べる時間」

 桃山は小学生を相手にするように説明する。


「俺、いつもお昼は食べないんだよ」


「今日は、午後から三十六度になる。だから少しでも胃に入れて」


「そう言われてもさ、俺、お昼持参してないし。今から買いに行ってたら間に合わなくなっちゃうよ」


「うちの店のパンがある」


 強い視線で俺を見る。その目には俺への心配が窺えたので、小さく息を吐く。


「……そんなに俺のことが、気になるの?」


 悔しさからも、揶揄うように口にした。


「気になるよ」

 

 桃山は、迷うことなく口にする。俺は静かに首を振る。


 あぁもう、どうにでもなってしまえ。


「わかったよ。ごちそうになるね」


 そう呟くと、壁から身体を起こして三年A組の集まる場所へと足を進めた。



***



 着替えを済ますと、応援席へと向かう。

 桃山の言った通りに、今日はかなり日差しが強い。衣装が黒いだけさらに熱を吸収していた。


 遅れて女子たちも応援席へと現れる。普段以上に気合の入ったメイクに屋外ということで、より一層肌が白く見える。今日が最後だからか、クラスメイトも隠すことなく視線を送り、目に焼き付けている。


 俺は首を掻いて視線を逸らすと、対抗するように『城島』の仮面を被って同じクラスの適当な女の元へと寄った。



 応援合戦が開始される。

 欠かさずに練習に参加させられたことで、頭は回らずとも身体が勝手に動いていた。


 女子サイドで舞う桃山を一瞥する。

 今まで見た中で一番輝いて見えた。それは本番だからか、俺の彼女に対する感情の変化から生まれたものかの判別はつかない。


 見てはいけないとわかりつつも、意に反して目で追っている。どうせあと数時間後には消えてしまうのに、自分では歯止めが効かなかった。



 赤組の出番を終えると、みんなが応援席に戻る中、適当な理由を告げて先に更衣室へと向かう。

 着替えを済ますと、知人に悟られぬよう気を払いながら、グラウンド近くの森へと足を踏み入れた。この場所まで演舞の曲や声が響き渡り、無意識に耳を傾けていた。


 感情に振り回されてゲームオーバーになるほど頭は湧いてない。

 もはや馴染みとなったベンチに腰かけると、今後の動きについて思索にふける。 

 

 今は午後一時半。ゲーム終了まであと二時間半だ。

 

 対象は、桃山以外なら誰だっていい。

 彼女はダメだ。それこそ高難易度を攻略する感覚で目をつけたものの、はっきり好意を自覚した今では、キスという行為が「忘れたくない思い出」になってしまう。

 何よりこんなクソみたいなゲームのカウント稼ぎで、彼女に触れたくなかった。


 女なら誰だっていい。最悪強行じみた行為になったところで、どうせすぐ俺も相手も忘れてしまう。


 そこで、はっと気づく。


 記憶が消えるのは、俺だけでなく『城島』と関わった全ての人間が対象になるのだろう。


 だったら


「彼女の中から、『俺』も消えてしまうのか……」


 自分が忘れる痛みなら、まだ我慢できる。

 ただ、『俺』を見てくれた彼女の中からも記憶が消える、という事実には耐えられなかった。


 俺は立ち上がると、まっすぐ理事長室へと向かった。


 理事長室をノックするが、応答がない。

 ドアノブを捻ると、鍵は開いているが彼の姿が見られない。自分の学校だからと無防備すぎないか。


 俺は室内に入ると、窓辺のラジカセが置いてある周辺を漁る。

 目的の品を手に取ると、颯爽と理事長室を後にする。


「青いねぇ……」


 俺は手に持ったCDのジャケットに目を落としながら苦笑する。日付は正しく、俺が中一の頃を指している。収録されてる楽曲も、今では息をするように馴染みのものとなった曲ばかりだ。


 乱暴に引き抜いて近くにあったゴミ箱に投げ捨てると、足早にグラウンドへと戻った。



***



 グラウンドに戻ると、すでに応援合戦は済んだようで、みんな気の抜けた顔で団体競技を眺めていた。


 俺は応援席には戻らずに、再び近くの木陰に背を預けて、手に持ったCDに目を落とす。

 後先考えずに行動してたので、どのように渡すか全く考えていなかった。


「本当、俺らしくないよねぇ」


 もはやここまで来ると、爽快ですらある。

 忘れるとはいえ、「等身大の高校生活」という青い経験は確かに得ることができたんだな。

 俺は静かに息を吐いて顔を上げた。


 桃山がタオルを握って、体育館横の水道へと向かう姿が目に入る。今日の彼女は普段と違ってかなり濃い化粧が施され、さらに炎天下の中だ。むず痒くて落としに向かったとはわかる。

 ちょうど一人だ。俺は木から背を起こして、体育館へと足を踏み出す。


 だが、そこで思わぬことが起きる。


 鏡に向き直った桃山の元に、複数の私服姿の男が近づく。出で立ちからも、恐らくこの高校のOBなのだろうと見て取れる。

 彼らは、下心を隠すことなく彼女の全身を舐めるように見始める。彼女は怖気ついて後退りしている。

 

 その瞬間、即座に身体が動いた。

 

 足早に体育館横の水道付近まで近づくと、男の一人が俺の存在に気づく。邪魔者が来た、という嫌悪感が滲んでいた。

 桃山を一瞥すると、強張った顔をしている。


 俺の中で何かが切れた。


「――――明日香ちゃん。用具の片づけ出来てなかったよ。ほら、団長が怒ってるから、早く行こう?」


 俺は目を細めて、桃山を落ち着かせるように声をかける。

 彼女は頭がついていけてないのかしばらく静止するが、やがて俺の発言に便乗するように無言で頷いた。


 俺は、OBらに顔を向ける。


「あ、彼女に何か用事があるのでしたら、今のうちに」


 俺は『白金』の仮面を被ると、にこやかに対応する。怒りで狂いそうになるものの、感情的になったら負けだ。

 OBたちは顔を引き攣らせると、やりずらそうにこの場を去った。


「ありがとう」


 桃山の呟きが聞こえて、正気に戻る。


「ほら、言ったでしょ。無防備だと、俺みたいな奴に引っかかるって」


 俺は『城島』の仮面を着用すると、彼女に顔を向ける。


「あなたは、彼らとは同類じゃないわ」

 桃山は、はっきりと俺を見て言った。


 俺は僅かに口角を上げると、背筋を伸ばして彼女に向き直る。


「明日香ちゃん、少し話したいことがあるからさ、ちょっとついてきてくれない?」


 体育館裏を指差して提案する。桃山は首を傾げながらも、無言でこくりと頷いた。

 そのまま俺らは、体育館裏へと足を進めた。



***



 体育館裏に向かう中、何気なくスマホで時間を確認する。

 現在は二時四十五分、制限時間まであと一時間弱だ。


 適度に人気がないと確認すると、黙ったまま俺の背についてきた桃山に振り返る。いつもの澄ました顔だが、僅かに困惑と動揺が滲んでいた。


「……まだ怖い?」


 俺は肩を竦めて声をかける。桃山は俯いて、小さく首を縦に振った。


「あんなこと、初めてだったから……」