成瀬 紫苑
「晴れのち稲妻、時々虹。」Day2「曇り、一時雷」
僕はただ浮かんでいただけで、海底がどのような状態なのか気付いていなかった。
【Day2「曇り、一時雷」】
窓の外ではセミが激しく鳴いていた。
これだけ厳しい炎天下の中、よく連日活動できるなと思うも、一週間という儚い寿命であるだけ求愛行動に必死なのだろう。
僕も一週間後に死ぬと宣告されるとさすがに腰は上げるだろうが、異性に積極的にアピールするかと問われると首を傾げる。
何故そこまで必死になってまで、誰かと共にありたいと願うのだろうか。
僕は、相手が笑顔でいてくれるならば、離れた木から眺めているだけで十分なのだが。
「奏多ってさ、沙那と付き合いたいとは思わないの?」
僕の部屋でアイスキャンディーを食べる哀は、唐突に切り出す。
まるで「今日は良い天気だね」と世間話を始めるかのトーンであるだけ、言葉を理解するのに時間がかかった。
八月中旬、お盆で実家に帰省していた。
瑛一郎は部活動、萌は受験、と皆それぞれの夏がある為、久しぶりに静かな時間を過ごせている。ただ一人の息子であるだけ母の対応は少々鬱陶しいが。
そして今、いとこである哀たち北野家が、僕の家まで訪れていた。
「…………いきなり何?」
間は空いたが、できるだけ平静を保って答える。
「だって奏多、昔から好きなんでしょ。もう高校生なんだからさ」
哀は真顔のまま説明する。感情は表れていないものの、内心楽しんでいるとは伝わる。
彼女は昔から、恋愛している人を観察するのが趣味だった。
「別に僕は、そんなこと思っていない」
僕は小さく息を吐きながら炭酸飲料の蓋を捻る。プシュッと気の抜ける音が鳴った。
「確かに沙那のことは好きだけど、でも全然、そんなこと思ってないから」
僕は蝉じゃないんだよ、と言うと、哀は首を傾げる。
「まぁ、奏多がそれでいいならいいけど」
哀はアイスキャンディーにかじりつきながら小さく笑う。
「高校生活はたった三年間しかないんだから、有意義に」
僕は目を閉じ、静かに哀の言葉を反芻した。
Day2「曇り、一時雷」
お盆休みも明け、寮生活に戻っていた。
今年受験生である萌は、講座や大学訪問などで夏休み前からほぼ顔が見られていない。瑛一郎も大会の時期であるだけ毎日部活に明け暮れていた。
宿題は七月中に終わらせていたので、直樹のように焦ることもない。
皆が忙しいことから、授業の始まる一週間前は珍しく平穏な日々を送っていた。
寮費を支払っているだけ、実家とは違いエアコン代を気にすることもない。環境に悪いと感じつつも、じっとり心地の悪い湿気を肌に纏うくらいならば利用するしかなかった。
クーラーの効いた室内で、一日中ゲームをしていようが親に注意されることもない。
とはいうものの、さすがに三日目となると少し飽きた。
「高校生活は今だけ、か……」
僕は哀との会話を思い出していた。
哀は、最初は僕と同じく傍観者的立ち位置だと思っていたが、以前朝の運動をしている彼女の顔を見た時にハッキリと「違う」ということがわかった。
本当は自身も物語の登場人物になることを望んでいた。
そのことは、彼女自身、気づいていなかった。
自分の顔は、自分では見えないものだ。
僕は皆と一緒にいる時、どんな顔をしているのだろうか。
だらだらと室内でスマホを弄ることは大人になってからでもできる。いや、「仕事があるからできないのでは」という現実的な話ではなく、「高校生であるからできること」ではないという意味だ。
瑛一郎のように、部活動に取り組む方が有意義な高校生活を送っているのは頭ではわかるが、何かをするにしては好奇心が沸かない。
だが、せめて部屋は出よう、と僕は身体を起こした。
廊下窓の外から晩夏を知らせるひぐらしの声が届く。木の葉の囀りが響き、土の香りを孕む湿気の交じる風が吹く。
まだまだ残暑は続くものの、気候はすっかり秋だと告げていた。
高校生棟内は、テレビの備わる広いラウンジをはじめ、自販機の並ぶロビーや売店、庭など共同スペースが複数ある。棟内を歩けば話し相手は見つかるものだ。
これは直樹がよく利用する手法だった。彼は常に外に出歩き、女の子を口説いては暇を潰している。
もはや彼は、「寿命の長い蝉」とも呼べるかもしれない。
探索するだけでも暇は潰せるものだった。
ラウンジのガラス張りの外で行われている部活動を傍観するのも良い。ロビーから食堂内の様子を眺めるのも良い。
何かに取り組む人を観察すれば、自分も同じことを取り組んだかのような錯覚に陥り、勝手に達成感が得られるものだ。
何気なく周囲を見回していたが、そこである人物が目に入り、ふと足が止まる。
「沙那?」
僕の目先は、廊下奥で歩く沙那を捉えていた。沙那はこちらに気付かず歩き続け、壁で姿が見えなくなる。
違和感を感じた点は、いくつかあった。
まず、彼女が歩いている廊下は、男子寮だ。
高校生棟内で男女別れている為、建物別に別れているわけではない。哀が僕の部屋に来るように、男女間で部屋の移動に規則がないだけ特に問題もない。
だが、あまり男性と積極的に関わることのない沙那であるだけ引っかかった。
また、彼女の着用している衣服も気になった。
普段は寝巻き用のTシャツまでもバッチリとアイロンが当てられ、シンプルトーンでありながら清潔感が感じられる。
だが今の彼女は、Tシャツには皺がより、髪も起きたてのように小さく跳ねている。
おぼつかない足取りからも、まるで先ほどまで軽く昼寝をしていたかのように感じる。
何より気になったのは、彼女の物憂げな顔だった。
表情筋には力が入っておらず、視線が下を向いている。
起きたところだから、一人で気が抜けているから、と言われればそうなのかもしれないが、妙に引っかかった。全く根拠もないが、これは幼馴染み故の勘ともいえる。
何故か心に靄がかかった。暗くて分厚い雲が広がり、雨が振りそうで振らない天候だ。
この感情の正体がわからないだけに居心地の悪さを感じた。気分が優れない。
何より沙那の後を追う勇気すら出なかった。
「やっぱ、部屋でゲームしていた方がいいや……」
慣れないことをするものじゃない。僕は羽化できない蝉なんだろう。
成虫になる為に何年も土の中で耐えたまま音を出すこともなく息絶えてしまうんだ。
僕は踵を返すと、部屋まで戻った。
***
「明日から授業か~」
瑛一郎は自身のクセ毛を弄りながら呟く。
「宿題も倒したから、もう余裕」
直樹もスマホを弄りながら答える。
相変わらず、僕の部屋で自室のようにくつろぐ彼らだが、沙那は最近、集まらなくなっていた。萌が受験で顔を見せなくなっただけに、女子が一人になるので気持ちはわかる。
だが、以前見た彼女の姿が引っかかっていただけ気になった。
「萌さん受験で忙しいんだよな~どこ行くんだろう」
瑛一郎は間延びした声で言う。
「おまえは本当、一途だよなぁ」
「おまえと比べられたら困るわ」
瑛一郎は心外だと直樹を指差す。直樹は聞こえない振りして顔を逸らす。
瑛一郎は、昔から萌のことを一途に想っている。それはもう、誰から見ても歴然で、萌に対してだけ露骨に言動が変わる。
だが萌は、瑛一郎のことは弟のようにしか思っていないらしい。情報元が実の弟であるだけ信憑性はある。幼馴染なだけ同情はするものだ。
だからこそ瑛一郎は、試合に勝った後やテストで満点を取った時など、自身が成長したと感じるたびに萌に告白しているようだった。
何度もアタックしなければいけない事実から悲しい結果で終わるとわかるものの、それでも彼は今でも一途に萌のこと思っている。
「とは言ってもさ。直樹だって好きな人いるじゃん」
僕はそう言うと、直樹は露骨に顔を強張らせる。
瑛一郎は、軽く面食らった顔をする。
「こいつが? どういう意味?」
「え、むしろ、今まで知らなかったことに驚きなんだけど」僕は目を丸くする。
直樹は女癖が悪いものの、僕のクラスメイトである美子のことを想っていた。昨年、彼女と出会った時からひと目惚れしたらしい。
マイペースな美子のフワフワした空気に、会話が得意な直樹も調子が狂わされるらしく、中々進展できないとか。彼が普段、相手している女の子の系統と美子はずれているだけやりずらいのだろうとはわかる。
とは言うものの、これだけ進展していない彼の姿を見るのは中々新鮮でもあった。
「俺、初耳だぜ? 誰だよ」
そう言って瑛一郎は直樹に迫る。
直樹は静かに僕を睨む。ほぼ周知の事実であると思っていただけ罪悪感はあった。
「や、やっぱりさ、好きな人とは付き合いたいとか思うの?」
以前、哀と話したことを思い出したので、話題を逸らす為にも問いかける。
すると二人は、険しい剣幕で僕を睨む。
「当然だろ。じゃなきゃ、告白なんてしねーよ」
何言ってるんだ、と言いたげな視線で瑛一郎は言う。
「彼女になったら俺のものって安心できるだろ。変な男が寄ってきたところで、胸張って蹴落とすことできるし。それに彼女だから、できることもある」
「俺の前でよく言うわ」
直樹は軽く手を振るが、瑛一郎は至極真面目な顔をする。
「もう今更だろ。俺と萌さんが結婚したら、おまえが親戚になるんだから」
「それはちょっと嫌やな」
「嫌ってなんだ!」
瑛一郎はムキーッと直樹の肩を揺さぶる。
「俺はおまえと違って紳士なんだ。俺の初めては萌さんに捧げるって決めている!」
「迷惑すぎない?」僕は失笑する。
直樹も、「それはそれ、これはこれ」と言う。
「本命と遊びは別って言うやろ。遊びの奴が上に上がることはないんやから問題ない」
「結婚したら法的に問題になる」僕は言う。
「万年発情期」瑛一郎も顔を歪めて言う。
「むしろ健全で良いことだろ。逆に我慢できるおまえらの方がすげぇわ」
「男って汚いよねぇ」僕は投げやりに呟く。
普段は萌や沙那がいるだけ彼らもわきまえているものの、男同士だとやはり下衆だ。
「奏多にはまだ早い世界だな」
どの口が言うのかわからないが、瑛一郎は頷きながらそう言った。
やはり付き合いたいと思うのが自然なのだろうか。
もちろん沙那が彼女だったら嬉しいし、幸せに感じるとは当然だ。
とはいっても、僕は彼らのような下心は正直持ち合わせていない。むしろ純度が高いだけに触れてはいけないとすら感じている。
遠くから見ているだけで満足だった。
「幼馴染」という関係であることを良いことに安心していた。
腐れ縁とは、中々切れないものだろう。
だが夏休みも明けてしばらくした時、天候は急変する。
***
「ゆ、祐介くん?」
「いきなりごめんな」
二宮 祐介(ニノミヤ ユウスケ)は軽く手を上げながら謝罪する。
彼は美子の妹であり、哀の幼馴染みでもある。
嫌味のない笑顔に、鳶色の柔らかい髪、さらりと無地のTシャツを着こなす。
フワフワした美子とは対照的に、常に彼の振る舞いには余裕が感じられるものだ。
周囲に子どもっぽい人間が多いことと、自身の感情を隠すことが苦手な僕にとって、彼の大人な振る舞いは憧れでもあった。
そんな祐介に呼び出されてラウンジまで来ていた。
「いえ、祐介くんが僕に用って、珍しいですね」
僕は率直に彼に問う。普段は哀を通じて会うことが多いだけに、疑問を抱いていた。
祐介は苦笑しながら首を掻く。
「まぁ別に、わざわざ報告する必要もないかなって思ったんだけど、あいつらにバラされるくらいなら俺から話しといた方がいいかなと思って、さ」
「何のことです?」
僕はきょとんと首を傾げる。全く見当がつかないだけ素直に反応してしまう。
だが、祐介の告白は、僕の予想の域をはるかに越えていた。
「美子ちゃんと血が繋がってないんだ……」
僕は目を開いて素朴に呟く。
「うん。実はな」
祐介は、僕の反応を予期していたのか、特に動じず軽く笑う。
「まぁ、直樹以外はみんな、二日前まで知らなかったし、そんな反応も仕方ないな」
「む、むしろ、直樹は知っていたんですか?」
口ぶりから幼馴染みである哀たちも知らなかったとはわかるが、それなら何故直樹は知っていたんだ。
「そうだな。知られたのは本当に偶然だったんだけど」
祐介は頭を掻く。「まぁだから、俺らが互いに嫌っていた理由がわかったろ」
僕は呆然と宙を眺めていた。
直樹が、好きな人である美子の兄、祐介を苦手としていた理由は、二人は血が繋がっていないことを知っていたから。
だから祐介を「兄」ではなく、一人の「男」として敵視していたんだ。
でも、それならひとつ疑問が浮上する。
「直樹が祐介くんのことを苦手としている理由はわかりました……。ですが祐介くんを敵視するだけ、祐介くん自身が美子ちゃんに対する感情が強いように考えているんだと思います」
「そうだな。俺はあいつじゃなくても譲る気はない」祐介は即答する。
「つまり、そういう意味なんですか……?」
僕は彼の表情を窺いながら尋ねる。
すると祐介は、「哀にも同じこと聞かれたな」と眩しそうに目を細めた。
彼の顔を見て、哀が恋愛している人を観察するのが好きな理由がわかった気がした。
誰かを想う人の顔はこんなにも穏やかで柔らかくて温かく、幸せな気分が訪れる。
それだけの感情が表れていた。
「直樹が、適うわけないですよ……」自然と呟いていた。
「そう言ってもらえて光栄だな」
祐介は肩を竦めて答えた。
変に繕うことなく肯定のできる余裕のある人は、こんなにもかっこよく見えるものなんだと改めて実感した。
彼ならば「兄」という複雑な立場に立っているだけ、共感してもらえるのでは、とふと思う。
「あの、少し変なことをお聞きしてもいいですか?」
「何だ?」祐介は首を傾げる。
「祐介くんはその……彼女と恋人同士になりたいって思います……?」
そう尋ねると、祐介はしばらく考え込み、天井を見上げる。
「まぁ、結果、それに越したことはないわな。兄であるだけ難しいけど、でも堂々と直樹を拒否できるわけだし」
「徹底してますよね」名指しであるだけ苦笑する。
「でも、付き合うことが目的な人はあまりいないんじゃないかな」
そう言うと、祐介は顔を下げて僕を見る。
「相手が好きだから独占したい、って考えた結果、付き合うという結果に落ち着くんだ。見ているだけで良い、だなんて奏多みたいにきれいな人間は中々いない」
あまりにもさらりと吐かれたことで静止する。
彼に視線を向けると、顎に手を当て僅かに口角を上げていた。
「……やっぱり、祐介くんにはバレていましたか」
「基本的に俺は、大抵のことは知っている」
祐介は、もはや同情するように笑った。
祐介は、社交力が高い故にあらゆる情報を得ている。そのことから余裕も生まれるのだろう。
彼には、例え道端の石ころである僕の恋愛事情でさえ、把握されているとはわかっていたものの、やはり当然のように情報を握っている。
もはや彼には隠すこともないだろう、と僕は白旗を振った。
「でも正直、本当に今の関係以上を望んでいないんですよ」
「多分、上部しか見えていないからだな。残念ながら、人間ってそこまできれいじゃない」
そう言うと、「じゃあ、ここで残酷な現実をいくつか」と、祐介は指を立てて僕に振り向く。
「俺は奏多の味方だし、奏多には報われてほしいと思っている。でも正直、素直に応援することはできない」
「どういう意味ですか」
「これがひとつめの鍵」
祐介は謎解き展開のように切り返す。
「ふたつ目の鍵。俺は修学旅行で、沙那と直樹と同じ班で、かつ俺が班長だった。基本的に自由行動も班行動だが、班内で話し合えば融通は効く。俺は沙那から『直樹と二人で回りたい』とお願いされ、その機会を設けた。結果二人は、自由行動の時に二人で回っていた」
僕の顔は一気に曇る。
だが祐介は、構うことなく続ける。
「そして最後の鍵。沙那は直樹のことだけは呼び捨てだ」
————奏多くんは優しいね。瑛一郎くんと直樹が弾丸で言い始めたことなんだけど、私も楽しかった。じゃあゆっくり休んでね
確かにその件は僕も引っかかっていた。幼馴染である僕らの中で、唯一直樹だけは呼び捨てだった。
「あとは奏多が好きに推理すれば良いよ。ただひとつ言っておくと、俺は自分で見たことや直接本人に聞いたことしか信じない」
社交力の高さ故の根拠だろう。僕にとっては、尊敬する祐介の言葉というだけで理由になる。
沙那のことが好きな僕を素直に応援できないということは、祐介は別の誰かを応援しているという意味なんじゃないのか。
沙那が直樹と二人で回りたいと言ったところで、直樹だけを呼び捨てに呼んでいたところでどうなんだ。
だが対照的に、心臓がドクドクと脈打ち、変な汗がじわりと滲みはじめる。
黙り込んだ僕を見て、祐介は苦笑する。
「悪い、虐めるつもりじゃないんだ。ただ、こんな情報だけでもおまえの顔は曇っている。それだけ感情は気まぐれなんだ」
そう言うと、祐介は僕の肩を叩く。
「基本的に誰だって、汚い感情は持っているものなんだよ」
***
その日から、ずっと祐介から聞いた情報が頭の中を渦巻いていた。
沙那は直樹のことが好きなのか?
いや、そうじゃない。直樹のことを呼び捨てにしているだけ、それだけ近い存在だったということになる。
つまり、あの二人は昔————。
「————おい奏多?」
言葉が届いて我に返る。
はっとして顔を上げると、瑛一郎が素朴に首を傾げる姿が目に入った。
壁に背を預けてスマホを弄っていた直樹も、手を止めて僕を見る。
「何だよ、ぼーっとして。夏休みロスか?」
瑛一郎は癖のある声で問う。
僕は直樹の視線を避けるように「べ、別に」と顔を逸らした。
普段見ている彼らの知らない一面を知っただけで、こんなにも不安になるものなのか。
僕はただ浮かんでいただけで、海の中がどのような状態なのか気付いていなかっただけなんだ。
だから今まできれいごとを言えていたのかもしれない。
直樹の視線が刺さる。だが、応えられるわけがない。
僕は感情を隠すのが下手だ。
何でも顔に表れてしまう自分が、時に嫌になる。
***
普段のように室内にこもっていると、メッセージが届く。
送信者は直樹だった。素っ気なく「暇なら部屋来れるか?」とだけ書かれている。
「珍しいな……」
僕が外に出歩かないだけ、基本的に皆、僕のところに来るものだ。
不思議に思いながらも、彼の部屋に向かった。
直樹の部屋に向かう途中、対面に見知った顔が現れる。
「沙那?」
「か、奏多くん?」
沙那は僕に気付くと、びくりと肩を震わせる。
自身の肩を掴み、背中を丸めている。普段は皺もないスカートやTシャツも所々乱れていた。以前見た姿と被った。
直樹の部屋の方角から歩いてきただけに、胸がざわついた。
「ど、どうしたのさ。何か最近、元気ないよね……?」
僕は恐る恐る声をかける。
「……何でもないよ」
沙那は目を細めてそう言うと、そのまま歩いて行った。
明らかに普段よりも顔が引き攣っていた。
だが僕は、彼女の腕を掴むことができなかった。
知らない彼女を見てしまう気がして、現実が見えてしまう気がして、前へ進めなかったのだ。
直樹の部屋を開けると、ベッドに座る直樹の姿が目に入る。
彼は僕に気付くと軽く手を上げる。
「今、そこで沙那と会ったんだけど、今までここにいた……?」
そう尋ねると、直樹は僕を一瞥して「そうやけど」とあっさり答える。
「ついさっきまで、ここにいた」
「何で……?」
信じたくなくて、あえてそう問いかけていた。
直樹は数秒黙り、小さく息を吐く。
「俺が女を部屋に入れる理由なんて、ひとつしかないよな」
そう直樹が答えた瞬間、頭がカッと熱くなった。
感情が顔に出ていたのか、反応を予期していたのか。
直樹は僕を見ると、「勘違いすんな」と冷静に続ける。
「俺が呼んだわけじゃない。あいつがここに来たいって言うたからや」
「え?」
「沙那の方から、ここに来たいって言うたんや」
直樹は、はっきりと口にする。
「会いたいっていう女を俺が拒否するわけないやろ。それも沙那みたいな美人を、さ」
彼の口ぶりからも、嘘は吐いていないと感じられた。
だが、そんなのまるで、彼女の方から直樹に抱かれに行ってるようなものじゃないか。
それだけ沙那は、直樹のことが好きというわけか?
「でも、直樹は美子ちゃんが好きなんだろ……」
そう言うと、直樹は意地悪く口角を上げる。
「前に言うたやろ。本命と遊びは別ものって」
その言葉が聞こえた瞬間、雷が落ちたかのように目の前が真っ白になった。
気付けば直樹の肩を掴んでいた。
頭で考えるよりも先に行動していたので、自分でもよくわからない。それだけに言葉が出なかった。
だが直樹は、特に動じずべっ甲色の髪を弄っている。
「修学旅行、沙那と一緒に回ったって祐介さんから聞いた……沙那の気持ちに気付かないほど直樹は鈍感じゃないはず。それなのに、気持ちを弄んだっていうのか……?」
僕は震える声で問う。
直樹はじっと僕を見た後、小さく息を吐く。
「俺はただ、あいつに応えただけ。あいつも俺も同意の上やし、お互い恋人おらんのやから何も問題ないやろ」
「さっき会った沙那は寂しそうな顔をしてた。そんなの、幼馴染なんだからほっとけるわけないでしょ」
「幼馴染、ねぇ……」
直樹は静かに復唱する。
「幼馴染なんて、奏多が思うほどきれいな関係は存在してへんよ」
そう言うと、直樹は僕の手を払い、立ち上がる。
僕は彼の目をじっと睨む。
「箱の中に入ってしまったら抜け出す時に辛くなる。やから俺も姉貴も上部だけで付き合ってたんや。美子ちゃんのことは好きやけど、でも無理ってわかってるしな。敵わん相手ずっと追いかけるほど、俺も気力がない。全部が全部、遊び」
直樹は吹っ切れたように手を振ると、僕に振り返る。
「幼馴染やから沙那が寂しそうな顔してるのが嫌なんか? 違うやろ。奏多は今、俺に嫉妬してるんや。つまり、自分がそうなることを望んでる」
「望んでるわけじゃ……」
「彼氏やないんやから、俺と沙那が会ったところで、奏多に怒る権利はない。でも嫌やって思ってるのが、証拠。つまり、奏多が知りたいって思ってた感情の答えが、それなんや」
————や、やっぱりさ、好きな人とは付き合いたいとか思うの?
直樹は、茫然とする僕の肩を叩く。
「相手を独占したいって汚い感情が生まれるからこそ、付き合いたいって思うものなんだ」
ゴロゴロと雷が鳴った。廊下窓の外には暗くて分厚い雲が広がり、室内のトーンを下げる。
雨音はしないが、雨天でなくても落雷は発生するとはどこかで聞いた。