• 成瀬 紫苑

「コールドゲームは望まない」第二試合 夏vs自分

爽やかに夏を駆け抜ける青い物語。



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【第二試合 夏vs自分】


 次の日の早朝五時。

 私は地元の川辺を走っていた。


 昨日、楽器を所持して改めて体力が重要だと痛感した。

 今までは演奏と体力作りの繋がりが感じられず、陰で休んだりと情けない行動を取っていた。だらしない過去の自分に恥ずかしくなる。


 昨夜の翔吏との会話から思考を切り替え、少しでも自分に投資しなければいけないと考えての自主練だ。

 音すら鳴らせない今のままでは、届く思いも届かない。

 特に私は、同期と同じ立ち位置に立てていないのだから、人一倍努力をしなければいけないんだ。


 あれだけ走るのが嫌だったのに、自ら行動に移っているなんて、二日前の自分は考えてもいないだろう。


 六月に入ったことですでに日は昇っているものの、早朝であることから周囲は閑散としていた。

 どちらかといえば田舎に分類される私の地元には、家から徒歩数分の場所に大きな川がある。この周囲では運動をしている人をよく見かけるので、ここなら走っても問題は無いだろう、と朝から訪れていた。


 校舎内とは違い、風も通れば地面も土で足の負担も少ない。校舎内での運動に慣れていたことから案外いけるものだ。


 爽やかで澄んだ空気が心地良い。川で冷やされた緩やかな風が、ジワリと浮かぶ汗を撫でる。

 朝から運動するのは、これほど気持ちがいいものなんだ。


 無心になって走っていたが、ふと高架下に見覚えのある姿が目に入る。


「速水さん?」


 思わず足が止まる。

 高架下には、一心にバットを振る速水さんの姿があった。

 スポーツブランドのTシャツにジャージ姿で、頭にはタオルを巻いている。

 大きな身体でスイングするその姿は豪快だった。


 茫然と視線を送っていたことで、速水さんも私に気が付く。

 寝間着同然のジャージ姿であることで恥ずかしくなり、私は露骨に顔を逸らしてしまった。


「ははっ、身体はでかいしスゲー食うけど、悪い奴じゃないよ」


 速水さんは抱えていたバットを下ろして爽やかに笑う。

 私は慌てて手を振る。


「やっ、まさか地元にいらっしゃるとは思わなくて……そそそんなんじゃないです」


「あ、君もここが地元なんだ」


「君も?」


「俺もここが地元なんだ」


 ちなみに家はそこ、と速水さんは後ろを指差す。馴染みの道に位置しているだけ目を見開く。


「ま、毎朝通ってます!」


「そうなの? じゃあさ、雪村病院前の桜の木も知ってる?」


「一本だけ満開になるやつ!」


「そうそう。じゃ、このパン屋はわかる?」

 そう言って速水さんは、近くに置いてある紙袋を指差す。


「モモヤマベーカリーだ」


「正解。生粋の地元民だ」

 

 速水さんは満足気に笑うと、腕を下ろした。


「すごい偶然だね。えっと……そういや名前聞いていなかったっけ。君は?」


「た、橘 陽葵(タチバナ ヒマリ)です……」


「橘さんか。俺は速水 瞬(ハヤミ シュン)。同じ地元民としてよろしく」


 速水さんは目尻を下げて笑うと、「よかったら橘さんもどう?」とパンの入った紙袋を掲げながら手招きする。

 突然の誘いに私は身体が静止する。


「あ、ごめん。練習の邪魔かな?」


「い、いえ、えっと、良いんですか?」


「うん。実はこのパン屋の看板娘と幼馴染でさ」


 依都のようにクールで美人な看板娘さんの姿が思い浮かぶ。


「新作の感想聞かせてくれって言われてるんだけど、『瞬は美味いしか言わない』っていつも怒られるから、むしろ協力してくれると嬉しい」と速水さんは笑う。


 地元民では知らない人がいないパン屋なだけに、新作が食べられることに心が躍った。

 橋の下に降り、速水さんの元まで向かう。


 紙袋から取り出されるパンはどれも黄金色に輝き、目から美味しいと伝わる。


「今回は夏向けらしくてフルーツのものが多いかな。でも俺はやっぱりこれが一番気になるな」

 そう言ってカレーパンを手に取る。


「カレーパンも改良されたんですか?」


「らしいよ。ただでさえウマいのに、夏向けにさらにレベルが上がったって」

 

 モモヤマベーカリーのパン屋は、カレーパンが一番人気だった。

 外はカリッカリに揚げられ、中のスパイスも絶妙な辛さでバランスが丁度いい。文句のつけようのない品であるが、更に改良されたとだけ期待が高まる。


「ほら、橘さんも」


 そう言って速水さんは笑顔でカレーパンの入った袋を差し出す。

 私は頭を下げながらそれを受け取る。


「温かい……!」


「さっき貰ってきたばかりの揚げたてだよ。中々食べたことないだろ」


「はい。いつもはお昼に食べるので……まさか揚げたてが食べられるなんて」


「幼馴染の特権。遠慮せずに食べてな」


 速水さんは爽やかに手をひらひらさせると、パンの入った袋を開け始める。私も腰を下ろしてパンに齧りつく。

 

 カリッと軽やかな音が鳴り、上質の油分の孕んだアツアツの生地を噛み締める。咀嚼するたびスパイスの効いたカレーの香りが充満し、幸せな満足感が訪れる。

 冷めても美味しいものの、やはり揚げたてとなると味が格別に感じられるものだ。


「おいしい……!」


「ほんとウマいよなぁ。毎日食べても飽きないっていうか」

 速水さんもカレーパンを口にしながら言う。


「本当……本当に美味しい…………温かいから尚更……」


 本心から言葉にすると、速水さんは「やっぱ、『美味しい』しか言えないよな」と納得するように頷いた。


「ってすみません、先輩なのに……」

 口調が砕けていたことに今更気付く。


「あぁ気にしないで。別に俺、吹部の先輩ってわけでもないから」


「でも…………って、え?」


 思わず顔を上げる。「私が吹部なの、知られていたんですか?」


「前にワックで、一ノ瀬たちに挨拶してただろ」

 速水さんは笑顔で説明する。


「そ、そういえば」


 当時は速水さんのことで浮かれていたが、あの時、店内であるにも関わらず大声で挨拶していたんだ。

 あまりにも反射的な行動だったことから、全く意識していなかった。

 思い出して急激に顔が熱くなる。


「まぁ上下関係が厳しいのは、もはや伝統でもあるから仕方ないかもだけど、でも、オフの時までかしこまられると結構やりずらいもんだよ。あの時も一ノ瀬たち、ちょっと困惑していたし」


「そ、そういうものなんですか」


「俺も一応、三年なのでね」速水さんは肩を竦める。


「気を抜けと言っているわけでもないけど、固くなりすぎないで。あまり意識し過ぎるとメンタルがダメになってしまうよ」


 実際昨日、ダメになっていたので思わず口籠る。


「…………私、部活に入るのが初めてなので、先輩との付き合い方がわからないんです……怒られたくないってばかり考えてしまって」


「まぁ誰だってそうだよ。理不尽に怒る先輩がいることも事実だし」

 速水さんは同情するように苦笑する。


「でも、後輩が努力している姿を見ていると多少のことは気にならないものなんだ。だから先輩の目を気にするのではなく、まずは練習に力を入れるほうがいいかもしれないね」

 

 速水さんは食べるのが速いようで、六個ほどあったパンもすでに残り二つになっていた。「これもウマいな」と彼は呟きながらパンをほおばる。


 先輩の立場である彼からの言葉を、私は深く噛み締めていた。


「それに上は上で大変なものだよ。特にうちはメンバーが選抜されるだけ、むしろ学年が上がるにつれて気が抜けなくなるというか」


「そういえばクラスメイトにも、ベンチ入り目指している人がいます」


 そう言うと、速水さんはふと空を見た後、こちらを見る。


「もしかして、野中?」


「あ、はい」名指しであるだけ軽く驚く。


「そうか。彼ならベンチ入りも、全然あり得るな」

 速水さんは納得するように何度も頷く。


「……それだけ翔吏って、上手いんですか?」恐る恐る尋ねる。


「うん。特にバッティングがいいね。彼、ケガで半年ほど休んでいたって聞いたんだけど全くそんなブランク感じさせないし、監督が代打で起用することを考えてても自然だよ」


 公園での翔吏を思い出す。誰にも負けない自信があるからこそ、あれだけ強気の発言ができたんだ。

 何となく悔しくなり、無言でパンをほおばった。


「ま、先輩は先輩で苦労があるってことだよ。だからあまり固くなりすぎないで。夏の試合で橘さんの応援聴けるの楽しみにしているからさ」


 速水さんは爽やかに笑う。嫌味のない純粋なその顔に心臓がドクンと脈を打った。

 こんなにも素直にまっすぐに感情を伝えられる人は、眩しく感じるものなんだ。


「ありがとうございます。あと、パンも最高でした」


 モニターの協力になれなくてすみません、と頭を下げる。

 速水さんは「美味しいんだから仕方ない」と肩を竦める。


「じゃ、ごめん。俺、朝練あるからそろそろ」


「いえ、邪魔してすみませんでした。そしてありがとうございました。では」

 私は慌てて立ち上がると深くお辞儀する。


 もはや癖となったその行動に、速水さんは「もう脊髄反射だな」と苦笑した。



***



 数日前まで辞めるか悩んでいたにも関わらず、見方が変わったことから今では入部時以上にやる気になっていた。


 一年生はコンクールに出場しない為、毎日の課題は応援曲、という具合に練習が進む。体力作り中心だったスケジュールも、今では開始三十分程度で終わるようになっていた。

 あれだけ嫌だった体力作りも、意味のある行為だと気付いた今では、むしろもう終わったのかとすら思うようになっていたので、捉え方ひとつでこんなにも変わるものなんだ。


 そして、基礎合奏が始まってから気付いたことがある。


「そうか、だからこんなに厳しいのか……!」


 吹奏楽部は、全員で一体となって音を奏でることから、人数の定められているコンクールなどの例外を除けば、野球部のようにメンバーが厳選される競技ではない。

 だが逆に、一人でも統率を乱す者がいるだけで全体の印象が悪くなる。これこそ「連帯責任」というものだろう。

 より良い演奏を行う為には、安定した音を出した上で皆と息を合わせることが何よりも重要だ。


 だからこそ、部内の規則の厳しさにも納得ができた。


 自分のことしか見えずに、そんなことすら考えられていなかった。

 冷静に現状を見つめることで、先輩からの指摘ひとつひとつが、全てはより高みを目指す為だとやっと気付くことができた。


「もっともっと……時間を有効に使わなきゃ…………!」


 ランニングシューズの紐を締めると、朝日の差す中、川辺を目指して今日も走り始める。



***



 野球部のメンバーが発表されたようで、今日から本格的に練習が始まる。

 うちは野球部も全国に名前が知られる強豪だ。甲子園にも何度も訪れ、そのたびに吹奏楽部の演奏がテレビで流れていた。

 だからこそ、下手な音は出すことができない。


 選手ごとに割り振られた楽曲の記載されたプリントが配られる。

 いよいよこの時が来てしまった。夢にまで見た応援の練習が始まるんだ。


 緊張で手が震える。

 恐る恐るメンバーを確認すると、一番見たかった爽やかな名前が目に飛び込んだ。


「速水さん、やった!」

 小さくガッツポーズをする。


 打順の五番目に「速水 瞬(三年・主将)」と記載されていた。

 楽曲は某野球部ドラマの主題歌であり、まさに彼のイメージとぴったりの選曲だった。


 浮かれたままプリントを確認していたが、そこでさらに目を見開く。


「翔吏…………!」


 ベンチ入りメンバーの欄に、「野中 翔吏(一年)」の文字があった。

 珍しい名前なだけに、恐らく彼で間違いないはずだ。

 

 メンバーは大半が三年生で構成され、一年生は彼含めてたった二人しかいない。

 速水さんもベンチ入りの可能性はあるかもと言っていたが、それでも彼の実力に言葉を失った。


「あいつ、本当にすごかったんだ……」


 じゃ、一年準備、との声が響いたことで慌てて立ち上がった。



***



「翔吏、すごいじゃん」

 

 次の日、教室に着いて開口一番、前座席に声をかける。


「何が?」

 翔吏は目を丸くして問う。


「ベンチ入りしたんでしょ。うちで渡された応援のプリントに名前、あったからさ」


 そう言うと、翔吏は口角を上げて得意げな顔をする。


「あぁ、そのことか。ま、当然の結果だな」


「は?」予想外の返答に、思わず目が丸くなる。


「誰よりもバットを振った自身だけはあったんだ。努力が実を結ぶとはこのことだな」

 翔吏は至極当然だ、と言わんばかりに頷く。


 以前、公園で彼の姿を見たこと、更に中学時代ケガをしていたという話を聞いてから、彼がどれだけ努力をしたのかは想像の余地をはるかに超えるだろう。

 とはいうものの、どこか捻くれている。


「素直に喜べばいいものの」私は口を尖らせて言う。


「言ったろ。これがスタートラインなんだ」

 翔吏は口を曲げて答える。


「なんか本当……速水さんとは大違いだね」


 思わず口に出ていた。同じ野球部なだけにどうしても比べてしまう。

 私の言葉が気に食わなかったのか、翔吏は険しい顔で私を睨む。


「俺は剛速球ストレートより、変化球の方が好きなんだ」


「そんなこと聞いてない」


「ま、つーわけで、俺が打つ時に下手な音出したら説教だからな。せめて音だけでもきれいなものを頼むぜ」


「うるさいわね。言われなくてもわかってる」


 感情的になり、握りこぶしで机をドンッと叩く。

 翔吏は私を一瞥すると、「ぶっさいくな顔」と吐き捨てて前方を向いた。


 私はじっと彼の背中を睨む。

 

 悔しい。素直に褒めたにも関わらず、何でここまで不愉快にならないといけないんだ。

 こんな捻くれた奴がベンチ入りできていることにも、それが彼の実力でもぎ取った結果であることにも、全部が悔しかった。


 こんな奴に負けてられるわけがない。


「陽葵、お腹でも痛いの? 険しい顔」


 昼休み、翔吏の席でお弁当をつつく依都は淡々と指摘する。


「そんなに顔、強張ってる?」


「うん、陽葵は感情が顔に出やすいから」


 私と違って、と依都は真顔のまま淡々と答える。「でも最近、弱音吐かないね。やっと慣れてきたんだ」


「うん、こんなところで負けてられないと言うか……」


「負けてられない?」


 何のこと?と依都はキョトンとする。

 私は無言で彼女の座る椅子を睨みながらパンをほおばった。



***



 休日の練習、今日は普段より一時間早く部室に訪れていた。

 基本的にこの時期の自主練習はコンクールメンバー優先であるが、禁止はされていない。少しでもたくさん練習して見返さなければいけないんだ。


 何故かわからないが、翔吏と話した後は毎回やる気になっていた。釈然としないが、彼に対抗する感情から向上心が生まれているのは事実だった。


「今に見てなさい…………」

 

 音楽準備室から自分の楽器と譜面台を取り出して外に出ようとすると、「あれ、橘さん?」との声が響き、飛び上がる。

 振り向くと、綺麗な黒髪をなびかせた一ノ瀬先輩が、凛と背筋を伸ばして立っていた。


「い、一ノ瀬先輩……! おはようございます!」


 私は脊髄反射で深くお辞儀をする。


「す、すみません、少しでも早く練習をしたくて空き部屋で練習しようと。個人練習は可能だと部長から聞いていたので……」


 しどろもどろになりながら弁解すると、一ノ瀬さんはジッと私を見る。


「別に、怒ってないじゃん」


「え?」思わず顔を上げる。


「この時期は自主練遠慮している人ばかりだけど、でも一年でもしていいんだし」


 そう言うと一ノ瀬さんは、自身の楽器を棚から取る。


「だからそんなに構えられたらこっちも困るよ。練習する人を止めるわけないんだから」


「す、すみません……」


「じゃ」


 一ノ瀬さんはそう言うと、颯爽と部屋を出る。

 私はその場で茫然と立ち尽くしていた。


 以前、速水さんが「一ノ瀬たちも困惑していた」と言っていた言葉を思い出す。

 気を遣いすぎるあまり、よく考えたらわかることすら理解できていなかった。


 思わず笑みが溢れる。


「やるぞ!」


 応援曲の楽譜を握りしめ、空き部屋へと向かった。

 


 ***



 本格的に演奏の練習が始まってからは一日がとても早く感じられた。

 基礎体力がついてきたのか、三十分間走で膝をついて休憩するなんて情けない行為はしなくなった。

 それどころか筋肉痛も通り越し、今ではもはやどれだけスタミナがつけられるかゲーム感覚のように身体を鍛えるようになっている。まさに「運動部」と言っても過言ではない。


 体力がついてきたことで、疲れることもなくなった。二ヶ月前までは帰宅後は疲労から何もやる気が起こらなかったが、今では譜面とにらめっこして音の確認をできる余裕が生まれている。


 改めて体力って必要なんだ、と身に沁みて感じた。



 早朝五時。今日も川辺を走っていた。

 もはや習慣となっていたので今もやめることはない。むしろ初夏の爽やかな朝なだけに早く起きないともったいないとすら感じている。


 高架下には、いつものように速水さんの姿があった。

 学校では常に周囲に人がいる彼も、この瞬間だけは自分の世界に篭っている。

 そんな貴重な時間を私だけが知っていることに勝手に特別感を感じていた。


 遠くから見守るだけで声をかけることはしない。せっかくの貴重な時間の邪魔はしたくないし、私だって少しでも走って体力をつけたかったのだ。


 お互いが、熱い夏に備える為に。

 

 あっという間に一ヶ月が過ぎ、そして開会式前日となった。



***



 開会式前日。地元のローカルニュースでは、明日から始まる高校野球の特集が放送されていた。

 注目高校として当然のように紫野学園がピックアップされていることに口角が上がる。


「やっぱりうちって凄いんだぁ」

 

 冷蔵庫から麦茶を取り出してソファに座る。 

 茫然とテレビを眺めていたが、突如速水さんの顔が表示されたことで心臓が止まりそうになった。


 リモコンで音量を上げ、無意識に前かがみになる。

 画面には、「速水瞬(主将)」の文字と共に、速水さんのいつもの笑顔が映し出されていた。

 画面越しでも伝わる彼の爽やかな空気に、心臓が苦しくなる。


「陽葵、目悪くするよ」

 母は苦笑しながら私に声をかける。


 いつの間にかソファから腰を上げ、テレビの傍まで近寄っていた。


「だって、うちの高校が出てるから」


「とはいっても貼りつきすぎ。まさかその主将さん、好きなの?」


 思わず静止する。

 だが母は冗談のようで「ま、陽葵が手を出せるような人でもないか~」と失礼なことを言いながら風呂場へと向かった。


 私はムッとしながら画面に顔を戻す。


「それでは最後に、この夏への意気込みを教えてください」

 

 リポーターの言葉に、速水さんはカメラ目線になる。

 目が合った感覚に陥り、身体に緊張が走った。


「僕たち三年生は、一年の時に一度、先輩方に甲子園という舞台に連れて来ていただきました。あの時の熱さを今でも忘れられません。今度は僕たちが保護者の方や応援団の方、そして普段から応援してくださる地元の方に、あの場で恩返しできるよう全員で結果を掴みたいと思います。応援のほどよろしくお願いします」

 

 速水さんのまっすぐで濁りのない言葉に奮え上がった。


 私がここに来るきっかけになった二年前の甲子園の日、速水さんは当時甲子園という私の憧れの熱い場に立っていたんだ。


 心臓が大きく脈打ち、呼吸が荒くなる。

 固く拳を握っていたことで手のひらがジワリと痛む。

 こめかみ部分の血流が盛んになっているのか、脳内にドクドクと鼓動の音が響いていた。


 いてもたってもいられなくなり、気づけば玄関に向かっていた。


「陽葵、こんな時間にどこ行くの?」

 偶然部屋から降りてきた姉が声をかける。


「近所だよ。すぐ帰ってくるって言っといて」


 時計は午後九時を指している。まだ補導はされない時間だ。

 私は慌てて靴を履くと、一直線に川へと向かった。


 日の沈んだ夏の夜を駆ける。

 梅雨も明けたことで、日中は連日汗が滲む季節になったものの、夜は心地良い気候だった。

 遠くの田園から蛙の鳴き声が響く。ジジジッと虫も静かに声を上げ、夏の夜を醸し出す。

 広い川に冷やされた風が火照る肌には心地良く、朝とはまた違った爽快感が感じられた。


 今は部活動が終了した夜であり、且つ明日は朝から開会式だ。夏に備える為、休んでいるとは普通に考えたらわかる。


 だが何故かわからないが、速水さんは今、あの場にいるだろうと確信していた。


 川辺の高架下まで来ると、そこにはバットを握って素振りをしている速水さんの姿があった。

 先ほどテレビと見た姿とは違った、私だけが知っている彼の姿だ。

 根拠のない確信が当たっていたことに、思わず口角が上がる。


「あれ、橘さん」


 速水さんは私に気付くと構えを解いた。私は小走りで彼の傍による。


「部活終わりなのに自主練かな。えらいね」


「それはこっちのセリフでもありますよ。明日は開会式なのに」


「ははっ、何かジッとしてられなくってさ」

 そう言って速水さんは、手に持つバットを弄ぶ。


「毎朝、ここで練習していますよね。話しかけたら悪いと思って、遠くから見ていただけなんですが……」とここまで言って口籠る。

 遠くから見ているだなんて言い方、まるでストーカーじゃないか。


 だが速水さんは特に気にすることなく、むしろ「あ、俺も」と笑顔でこちらを向く。


「俺も毎朝、そこの道走る橘さん見えていたよ。こちらこそ悪いかなって思ってたから話しかけなかったけど」


「そ、そんな、速水さんの視界にお邪魔してすみません」


「ははっ、何だそれ」


 速水さんは軽く笑うと、近くの段差に腰を下ろす。

 邪魔かなとは思いつつも、ここに来た目的が彼に会う為だっただけに、私もおずおず隣に腰を下ろした。

 

「橘さんのクラスメイトくん、本当にベンチ入りしたからすごいね」


「翔吏ですよね。まさかそれだけ実力があったとは思わなくて、私も驚きました。態度は生意気なんですが」


「態度は生意気なの?」速水さんは目を丸くする。


「はい。私のことなんてブスブス言うんで……」思わず顔が引き攣る。


「彼、そんなこと言うんだな。想像できないな」

 速水さんは素直に驚きながら顎に手を当てる。


「多分、先輩の前だから本性を隠しているんだと思います……」


 私は不貞腐れて告げ口する。

 速水さんはあいつの先輩であるだけ、せめてもの反逆だ。


「でも彼、本当すごいよ。常に上しか見てなくて俺らでも怖いし。スタメンではないものの実際、他の三年差し置いてベンチ入りもぎ取ったんだから。彼は間違いなく大物になる」


 速水さんはまっすぐに褒める。後輩でありながらも、素直に実力を認める彼の懐の大きさにまたもや感激した。


「まぁ、でも、本音言えば、一年生でベンチ入りできた彼にはちょっと嫉妬しているんだけどな」


「そうなんですか」意外な言葉に目を見開く。


「だって俺、一年の頃スタンドだったし」


 速水さんは目を細めて言う。「もしあの時ベンチ入りしてたら、甲子園の土、踏めたんだけどな」


 私は、甲子園という場で応援をすることが夢だ。

 だが速水さん含む選手たちは、ただ甲子園という場に訪れるだけでなく、さらに狭き門をくぐらなければいけないんだ。


 改めて「甲子園」という場に、どれほど感情が詰まっているのかが感じられて鳥肌が立った。


「…………実はさっき、テレビで速水さん映っていたんですよ」


「え? あぁ、多分夏の特集だよな。どれだろう」

 いくつかインタビュー答えたんだよな、と速水さんは腕を組む。

 

「ローカルチャンネルでやっていた注目の学校特集です」


「あぁ、それか。何か恥ずかしいな」

 そう言って速水さんは照れ臭そうに頭を掻く。


「私、速水さんの言葉に震えました。実は私、吹奏楽部に入ったのが、二年前の紫野学園の甲子園をテレビで見たからなんです」


「え、そうなの? まさか応援?」


「はい。二年前に偶然テレビで甲子園に出ている紫野学園を見て、私もあの場所で応援したいなぁって思って……だから、速水さんが甲子園で恩返ししたいと仰ってくださって、すごく嬉しかったんです…………」


 緊張で声が高くなる。自分の夢を野球部である彼に打ち明けることに、内心爆発しそうになっていた。

 

 恥ずかしい。絶対今、顔が赤い。いたたまれなくなり、どんどん顔が下に向く。

 今、速水さんがどんな顔をしているのかわからない。


「野球部の応援の為に入部だなんて、こんな光栄なことはないよ。すごく嬉しい」


 普段以上に温和な声が届く。

 恐る恐る顔を上げると、速水さんは少年のような顔で笑っていた。


「本当、俺らだけじゃここまで頑張れないからさ。吹奏楽部の演奏や、チアリーディング部の応援があるからこそ本気で挑めるんだよ。まぁそれにうちの連中、単純な奴ばっかだから、女の子に応援されるってだけでやる気になる奴多いし」


「そういうもんなんですか」私は笑う。


「男ってそういうもんだよ」速水さんも笑いながら肩を竦めた。


 あまりにもストレートに紡がれる速水さんの言葉には、何も嫌味も臭みもなかった。


「でも、そうか、甲子園で応援されたいって言われちゃ、こっちも頑張らないとね」


 速水さんは軽く言うが、私の身体は強張る。


「いや……、プレッシャーを与えたつもりでは……! て、適度に頑張ってください」


「適度にって」速水さんは笑う。


「行ったことないんだろ。やっぱり生の甲子園は違うよ」

 

 そう言うと、速水さんは眩しそうに空を見上げる。


「とっても眩しくて熱いんだ。人の熱気に包まれて感情が圧倒される。あの場所は本当に一度、行くべきだよ」


 そう言うと、速水さんはこちらに拳を見せる。


「甲子園、連れてってあげるからさ」


 心臓が大きく鳴った。

 先ほどは画面越しだったものの、今は錯覚でもなく私を見つめ、まっすぐに言葉を投げている。

 こんなにも曲がりのない感情の受け止め方を、私が知るわけもない。


 あまりにも早い剛速球ストレートを目にすると、圧倒されて言葉が出なくなるものなんだ。

 それだけ彼の純粋な感情に圧倒されていた。


 思わず静止したことで、速水さんは照れ臭そうに頭を掻く。


「って、さすがにクサいこと言ったな。ま、でも俺らが甲子園を目指しているのは元々だから」


 そう言うと、速水さんは大きく伸びをする。


 私も伝えなければ。

 まっすぐである彼の前だからこそ、

 偽りのない、素直な感情を。


「私も……必死で応援しますから!」


 私は勢いよく顔を上げた。


「まだまだヘタですが、恥ずかしくない音が出せるように練習しますから……なので、私も速水さんの背中を押す力にならせてください!」


 思っていることを素直に打ち明けた。


 速水さんの前だからこそ、格好がつかなくても飾り気のない純粋な言葉で感情を伝えたかった。

 そして口に出すことで、より一層自分の中の目標が明確になってくれる気がしていた。


「頼もしくて助かるよ。橘さんの応援が球場で聴けるの楽しみにしてる」


 そう言うと、速水さんは立ち上がる。


「遅くまでごめんな。家まで送るよ」


「いや、そんな、近所なので」


「むしろ近所なんだから、遠慮しない」


 そう言うと、速水さんは私の頭にポンッと手を乗せた。

 突然の行動に、全身が硬直する。


「こ、子ども扱いしてますよね?」


 咄嗟に口に出る。かわいげのない反応で殴りたくなるものだ。


「俺にとったら大抵の人は子どもに見えるよ~」


 速水さんは、ははっと豪快に笑うと、「家、こっちかな?」と歩き始める。

 

 私は男の人からスキンシップを受けたことがない。

 さらに彼は、紫野学園に通うきっかけとなった憧れの「高校球児」なのだ。


 隣に歩く彼を横目で見る。

 私の倍以上はある大きな体躯も、先ほどの包み込むような手も、全部が男の人だと感じられて胸が締め付けられた。


 平静を装うのに必死だった。耳の裏にまでドクドクと鼓動の音が響き、全身が熱くなる。

 彼にとったら何気ない行為かもしれないが、私の感情はここまで揺さぶられているんだ。


「ここなんだ。本当に近いね」


 速水さんは、私の家を見て目を見開く。

 私は赤面した顔を悟られないよう、下を向きながらお辞儀する。


「わざわざありがとうございました」


「いやいや全然、じゃ、ゆっくり休んで」


 そう言うと、速水さんは軽く手を振り、この場を後にする。

 私は小さくなる彼の背中を呆然と見つめる。


「陽葵、帰ってきたの?」


 声が聞こえたのか、母が玄関のドアを開く。「ってあれ?あの人さっきテレビで出てた人じゃ……」


「うん、そうだよ」


 虚な視線で答える私を、母はじっと見つめる。


「青春、しちゃって」


「そんなんじゃない」私は大袈裟に手を振る。


「ほら、明日も練習なんでしょ。早く休みなさい」


 そう言うと、母は家の中へと戻っていった。


「そんなんじゃ……ないから…………」


 軽く頭を触りながら、家の中へと入った。



第二試合 夏vs自分 完



次→「第三試合 現実vs夢」